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治承元年(1177年)4月28日風が激しい夜に、樋口富小路の仮小屋から出火した。火は折からの扇を広げたように広がり、遠い家は煙にむせび、近い家は激しい炎が何度も地面を吹き付けていた。火災規模は富小路から、西へ朱雀大路までの約180町余に及ぶ広範囲にわたった。この火災で大極殿を含む八省院全部と、朱雀門・神祇官・などが焼亡し。更に関白藤原基房・内大臣平重盛・権大納言藤原邦綱(五条東洞院の邸宅)、及び中山忠親・の公卿14人の邸宅を含み数えきれない程の家が被災した。閑院内裏は焼失を免れたが、高倉天皇は一時的に正親町東洞院第に避難をした。左京のほとんどが被災し、焼死者は数千人に及んだともいわれる。また、大学寮再建されず、日本の公的教育機関は消滅することとなった。これを受けて8月に元号が「治承」と改元される。この安元の大火の翌年に七条界隈で次郎焼亡が起こった。当時の都の人々に与えた不安は大きいものだった
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