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奈良・平安時代、義経の自刃を機に奥州を制圧しようと、頼朝は全国のご家人を動員し、仙道、東海、北陸の三方面から平泉に向かいます。奥州藤原氏を攻めた奥州合戦の激戦地で、藤原氏側の防御線として25万人を動員し半年かけて阿津賀志山から阿武隈川まで約4kmにわたって堀と土塁が造られました。我が国ではこのような形式の城郭は珍しいと言われているがこの時代には必ずしも珍しかったわけではなかったようで、街道を遮断するように柵や堀、土塁を設けるというのはよく行われたようである。阿津賀志山防塁の遺構は厚樫山中腹から阿武隈川近くの原町付近まで約3Kmにわたって分断されながら続いている。阿津賀志山防塁の大将は藤原国衡で、鎌倉の軍勢は当初防塁を攻めあぐねていたが山中を迂回して急襲したため不意をつかれた奥州藤原氏側は敗走、藤原国衡は討ち取られた。
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